本心を育む NO468 「あきらめる」

座禅をしていると、いろいろな気づきがあります。
ふだんは気づかなかった、小鳥のさえずりや風のそよぎ、季節の香りといったものが感じられるのです。
「風がこんなにあたたかくなっていたのか。そうか、もう、春だからな」「キンモクセイのいい香りが漂ってくる。秋を連れてきてくれたんだな」と、そんな思いが心に広がります。

日常生活の中で、心はどうしても「なにか」にとらわれています。
仕事のことであったり、家族のことであったり、恋愛のことであったり…。
そのことがとどまっていて心が縛られてしまっている、といってもいいでしょう。

じっと座っていると、とどまっているものが溶け出していき、心がふ~っとゆるみます。
禅語でいう「身心脱落(しんじんだつらく)」。
ここでいう「脱落」とは「解脱」という意味で、一切合切を放下し、なんの執着もない、という「自由無碍(じゆうむげ)」の境地を指します。
なにものにもとらわれない、心をとどめない自在な状態になるのです。
ですから、気づかなかったことに気づくことになったり、見えなかったものが見えてきたりするのだと思います。

それとは逆に、心を縛りつけるのが「競争」です。
「同期に負けてなんかいられない。課長ポストを最初に手に入れるぞ」「お隣よりいい車を買わないと、プライドにかかわる」「ブランド品の数では彼女に絶対勝たなくっちゃ」…
他人と競う思いが心を縛るのです。

しかし、必ずしも思いどおりになるとは限りませんから、今度は屈辱感や挫折感、嫉妬心、無力感といったものが、心にのしかかってくることになります。
心を縛るものからどう解放されるか。
「あきらめる」ことがひとつの方法かもしれません。
ギブアップするのではありません。
うまく「手放す」のです。

曹洞宗徳雄山建功寺住職 枡野俊明さんより

所長視点

「あきらめる」は「諦める」と書きます。
「ギブアップする」とか「未練を断ち切る」「断念する」といった意味で使われているが、元々は、真理や真実を、「明らかにする」「はっきりさせる」「つまびらかにする」という意味で使われていたそうです。
競争するのをあきらめて、心を静かにした分だけ、欲やとらわれ、こだわりや、思い込みなどを手放せて、大切なものを見えてくる… 分かっていても現実になると、ぶっ飛んでしまうことが多いですが、習慣にしたい一つです

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