薩摩は昔から「武の国」として知られながらも、他国のように深い堀や高い石垣、堅牢な城に頼らず、城はあっても、あえて城楼も天守閣もつくりませんでした。
これはもちろん、城の背後を城山という天然の要害が護っていたこともありますが、人間こそが不落の城であり、人間こそが堅固な石垣であり、人間こそが長大な堀である、という独特の人材登用と育成を大切にする慣わしが、あったからでした。
薩摩の郷中(ごじゅう)制度は、薩摩の歴史とともに受け継がれ、やがてそれが正式な「郷中教育」として完成したのが、江戸時代中期と言われています。
郷とは、方限(ほうぎり)、町内と呼ばれる行政の最小単位で、郷中は郷の仲間を意味します。
武家の青少年による自治組織で、武家の男子が6歳になると郷に入ります。
6歳から10歳ほどを小稚児(こちご)、11歳から15歳ほどを長稚児(おせちご)と言い、そして14、15歳で元服して二才(にせ)となり、25歳くらいまで郷中で学びます。
郷中ではニ才が長稚児を、長稚児が小稚児を指導し、それぞれのリーダーとして、ニ才頭(かしら)と稚児頭が選ばれ、二才頭は郷中の責任を負います。
そして、二才頭自身も、それぞれの郷の二才頭同士で学び、分かち合い、どうしても解決しないことがあれば、25才くらいを超え長老(おせんし)と呼ばれる大先輩のところに行き、教えを請いました。
これこそが郷中教育の特徴で、教師なき教育制度と呼ばれるゆえんです。
郷中教育において最も大切とされる、人として守るべき3つの教えがあります。
「負けるな」
人に負けないというよりも、どんな困難に遭っても決して自分に負けてあきらめないこと。
「嘘をつくな」
過ちを犯したときには決して言い訳せず、素直に非を受け入れること。
「弱い者をいじめるな」
弱い者いじめが最も卑劣で、器の小さい人間のすることだから、慎むこと。
こうした郷中教育の教えには、いつの時代にも通用する普遍の真理が含まれているように思えてなりません。
さて、郷中でも教えを誰よりもかたく守り、年長者を敬い、後輩をかわいがり、文武を鍛えた西郷さん。
やがて実力と人望を備えた若者として成長し、下級武士の子ながら、下加治町の郷中に「西郷あり」と藩内に知られるところとなっていきました。
西郷さんは、ニ才頭として後輩たちを指導していくのですが、大山巌や東郷平八郎らはみな、西郷さんからかわいがられた後輩たちでした。
下加治町の郷中の子供たちが、他の郷中に比べて立派であるとされ、彼らが模範とするリーダーの西郷さんの評判が高まっていったそうです。
また、西郷さんは16歳のとき、その才能を評価され、「郡方書役助(こうりかたかきやくたすく)」として藩に出仕しました。
これもまた、郷中教育で日々才能を磨いた努力の成果でしたが、このことは、あとに続く後輩にとっても大いに励みになったに違いありません。
『西郷隆盛 十の「訓え」』西郷隆文
三笠書房
所長視点
郷中教育のなかで、危機管理のことを常に議論していたそうです。
あらゆる場面を想定し、ケース・バイ・ケースでどのように判断するのが武士としてふさわしいのか。リーダーとして有るべき姿なのか。答えなき答えを、いまの中高生の年令の若者がトコトン議論し合ったそうです。
その根底にあるものが「負けるな」「嘘をつくな」「弱い者をいじめるな」です。
特別なことではありませんが、ただ教えらたことではなく、自分で考え、判断し、行動できるようになるまで落とし込む。
本物になるための王道のように思います
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