ユダヤの古いことわざに、
他人にすぐれようと思うな
他人とちがった人間になれというのがあると聞きました。
また金子みすゞさんの『私と小鳥と鈴と』という詩があります私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
このような言葉に、言いようのない新鮮さを覚え、日常生活を営んでいく上で励ましを受けるのは、世の中がそれだけ画一化し、人間の価値が比較の中にのみ見出されているからでしょうか。
たしかに比較という要素は、生活する上でなくてはならないものです。
それがあるからこそ、自分が置かれた位置を知ることもでき、また競争心も湧いて、自分の能力の限界に挑むこともできようというものです。しかしながら、この比較も、人間一人ひとりは決して同じであり得ないという一つの「悟り」にも似たものなしに、ひたすら表面的な優劣に主眼を置くならば、それは、人間個々の可能性を伸ばすという教育の目的から遠く離れてしまいます。
《教育の目的は、一人ひとりが自己の可能性を実現すること。人それぞれちがう存在ということを忘れてはならない》
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所長視点
人には一人一人に神様が宿っています。それに気づいたときに本当の人生が始まります。
神様を見失ったときに、人生を迷い始めます
一人ひとりは違いますが、共通の「神様」で一つになっています。
「神様」で通じるなかで一人ひとりの違いを尊重することができると思います
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