「にもかかわらず」笑顔で生きる

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「本心を育む」のトリセツ

皆様の本心が刺激をうけ、栄養になりそうなお題を、まさきち所長がチョイスし

まさきち所長視点で解説しています

日々の生活で、真の家庭づくりにお役立てくださればさいわいです


まさきち所長
まさきち所長

今日のお題は 

渡辺和子さんです

【渡辺和子さん】雑用という用はない
ご自身の著書『置かれた場所で咲きなさい』で300万部を超えるベストセラーとなり、マザー・テレサの来日時に通訳として付き添われた前ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんのお話の中から『雑用という用はない』というお話をして下さっている箇所を以下の動画より抜粋させて頂きました。

今日のお題

修道者であっても、この世に生きている限り、煩わしいことに無縁であろうはずはなく、生身の人間である限り、傷つかないで生きていられるものではない。

いうも恥ずかしいような些細なことで心が波立つことがある。

先日も仕事を終えて修道院に戻り、廊下を通りながら「ただいま」と挨拶したのに、話し合っていた二人のうちの一人は、「お帰りなさい」といってくれたが、 もう一人は、何もいってくれなかった。

こんなことで傷ついてどうすると、よくわかっていながら、そんなことで心の中が波立つ自分を持てあましたのだった。

傷つきたいなどと夢にも思わない。

でも私は、傷つきやすい自分を大切にして生きている。

何をいわれても、されても傷つかない自分になったら、もう人間としておしまいのような気がしているからだ。

大切なのは、傷つかないことではなくて、傷ついた自分をいかに癒し、その傷から何を学ぶかではないだろうか。

思いやりというのは、自分の思いを相手に“遣る”ことだろう。

私が、挨拶を返してもらえなくて淋しかった、辛かったその思いを大切にして、「だから、他人が挨拶した時には挨拶を返してあげよう」と心に決めること、それが思いやりなのであって、それを可能にするためには、心のゆとりが要る。

このような心のゆとりをつくることを、私は若い時に一人の人から教えられ た。

その人は、傷だらけの自分に愛想をつかしていた私を優しく受け入れ、“傷 口”に包帯を巻いてくれた。

さらに、傷つくことを恐れなくてもいいこと、一生の間には何度も挫折を味わうだろうが、その度に立ち上がること、そして人間には、自己治癒力が与えられていることも教えてくれたのだった。

その時以来、私は強くなった。

傷ついても大丈夫という思いが心にゆとりをつ くり、傷から目をそむけることなく、自分で手当てすることを覚え、さらに他人 の傷に包帯の巻ける人になりたいとさえ思うようになった。

心に一点の曇りもない日など、一生のうちに数えるほどしかないのだ。心の中が何となくモヤモヤしている日の何と多いことだろう。

“にもかかわらず”笑顔で生きる強さと優しさを持ちたいと思う。

私の不機嫌は、立派な“環境破壊”なのだと心に銘じて生きねばなるまい。

私たちは、ダイオキシンをまきちらしてはいないだろうか。

他人、特に子どもたちの吸う空気を、自分の不機嫌で汚してはいないだろうか。

傷つきやすい、柔らかな心を大切に、そんな心しか持っていない自分をいとおしみながら、周囲の空気を少しでも温め、清浄なものにしてゆきたい。

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所長視点

「他人の痛みを思いやる人」は自分が痛みを経験し、そこから思いやりの心を育てることができた人だとすれば、私たちの心が傷つけられ、痛めつけられる機会も、満更捨てたものではないのかもしれませんね。

「そのおかげで、私たちは他人の痛みを思いやることができる人間になれました」

ってかっこよく言えたらいいけど、傷つくのはやっぱり怖いですね。

勇気の問題?!




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