哲学者の三木清は、「歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう」といっています(「人生論ノート」)。
幸福は必ず外に表されるものです。
その幸福は他者に伝わります。
幸福な人と一緒にていて、幸福になれないことはありません。
どのように幸福が外に表されるのか。
三木は「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと」をその例にあげています。
まず、「機嫌がよいこと」は簡単なことではありません。
しかし、常に上機嫌でなくても、気分が安定している人と一緒にいるとたしかに自分の気持ちも落ち着いてきます。
余計な気を使わなくて済むのはありがたいです。
次に「丁寧なこと」。
何かをお願いされても対応がおざなりになることはあります。
忙しいことなどを理由に求められたことをできないとは思わないで、しっかりと対応できることが、丁寧であるという意味です。
さらに、「親切なこと」とは、援助を求められたら、可能な限り、力になることです。
何でも力になれるわけではありませんが、時に自分のことを後回しにしても、心に余裕があれば、援助を求めてきた人の力になれることを幸福に感じられるのです。
三木が最後にあげている「寛大なこと」とは、考えの違った人を受け入れることです。
介護の場面でも、親の考えとぶつかることはあります。
それでも、親の考えを理解する、少なくとも理解する姿勢を示すことは大切です。
理解することは賛成することではありませんから、違う考えを寛容に受け入れてみましょう。
親のためにと思い献身的な介護をしても、介護をする子どもが不幸であれば、かえって親を不幸にしていることもあるのです。
そのために自分が親の力になれることを喜びに、そして、それを幸福と感じられれば、そのような子どもの思いは親に伝わり、親は子どもの世話を負担とは思わないでしょう。
三木は次のようにいっています。
「我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを成し得るであろうか」
『「今、ここ」にある幸福』 岸見一郎 清流出版
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所長視点
愛は与えて忘れましょう と言われますが、「忘れようする」時点で、与えたからには何か返ってくることに対して要求していることに表れともいえます。
与えて忘れるのではなく、与えたことを喜んでいる自分がいるか? これが重要ではないでしょうか?
与えたことが嬉しくてたまらないなら、与えたこと自体が幸せにある要素になります。
そういう幸せは、周りを幸せにすることでしょう
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