今日のお題は
羽黒山伏・大聖坊十三代目
星野文紘(ふみひろ)さん です
山伏って白い服きて
山を練り歩く人ですよね
星野さんは
出羽三山の麓に400年続く宿坊『大聖坊』で
国内外から山伏修行する人を受け入れているよ
今日のお題
ここで少し、修験道(しゅげんどう)について紹介しましょう。「修験道」とは、山に入って厳しい行をすることで気づきを得る、日本古来の教えです。「修験」とは「修行得験(とつけん)」「実修実験(じっしゅう)」の略語で、「身体を使って修める・験(しるし)をつかむ」という意味があります。山岳信仰をベースに密教や道教、神道、陰陽道などを包括したもので、もともとは日本全国に広がっていました。
『野生の力を取り戻せ』(渡辺清乃・女山伏)日本能率協会マネジメントセンター
修験者にとって「山」は神の棲む聖なる場所。修行で山に入ることによって、擬死再生(ぎしさいせい・生まれ変わり)を果たすと考えられているのです。山伏とは、『山』で『人」が『犬』になる、と書く。一人で山に入り、 四つん這いになって走り回る。 それが、山伏のやることだ。それ以上は、やってみなけりゃ わからない。
「山伏とは」『修験道とは」を、頭でわかって、なんになる?そんなことを考えていても、結局は外側にある知識をあてにしているだけだろう。山伏は、自然のなかに身をおいて、犬になる。もしくは、赤ちゃんに戻るんだ。赤ちゃんは、考えたりしない。「感じる」ことの優等生。みんな、生まれた時はそうだったんだよ。
それがさ、育っていくあいだにいろいろな知識が入って、 みんなと同じように良い子になって、テストで〇をもらうのをがんばって。どんどん、「感じる」は封印されていくんだよ。
「『感じる』ってなんですか?」と聞くなよ。それを聞く時点で、「感じる」が 完全に封印されている証拠だよ。山に入って修行して、感じたことを考える。山伏が修行をとおして歩く道、「修験道」とはそういうものだ。山伏修行の最中は、無言だ。ただただ、黙って山のなかを歩くんだ。
一つだけ、言っていい言葉がある。それは、「うけたもう」。なにがあっても、『うけたもう」だ。修験道は基本的に、「うけたもう」の精神だ。そもそも、神仏習合だろ。祝詞も唱えるし、 お経も真言も唱える。山岳信仰に道教や仙人思想も入っているしね、すべてを取り込んでいくんだ。
「鬼」っているだろう。一般的には悪者にされているけれど、 修験道では鬼も仲間だ。鬼も取り込んで、神様にしちゃうんだ。『うけたもう』ってね、 『委ねる』ってことだよ。そこにはさ、信頼があるんだ。 『うけたもう』の世界には非人間的なことは出てこない。だから、『うけたもう』できるんだよ。
修験道はね、ゆるやかなんだ。なんでも吸収しちゃう。境界線は曖昧だよ。もともとと日本って、 そういうところのある国だよ。だから、それでいいんだ。
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所長視点
山伏の修行は、考えずに「感じること」で思考や、論理を超えるなかで悟っていくことです。感じて行動するなかで、心を育んでいくことができる。そこに人生の醍醐味があります。私達は考えすぎる傾向があります。どうしてこれをしないといけないのか?これをするとどうなるのか?しかし、考えて解決する問題などほとんどありません。「うけたもう」とは、すべてを肯定し、自分を委ねることで、神様が導ける自分になることです。人生のすべての基本がそこにあるのかもしれません
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