制約の中の自己表現

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かつて、シンセサイザーという技術が世の中に現れたとき、この新しい電子楽器を用いて音楽の地平を切り拓いた冨田勲が、印象深い言葉を残しています。

「音のパレット」と呼ぶべきシンセサイザーの出現によって、画家が絵の具を混ぜ合わせ、好きな「色」を作り出すように、我々音楽家も自由に好きな「音」を作り出せるようになった。

この言葉どおり、冨田勲は、この電子楽器を使って、様々な楽器の音を創作し、ホルストの『惑星』など、大編成のオーケストラの楽曲をも見事に演奏しました。

しかし、我々は彼の数々の素晴らしい作品を味わうとき、その作品に感動する一方で、もう一つの素朴な真実に気がつきます。

シンセサイザーの出現によって、どれほど自由に「音」を作り出せるようになっても、古くからあるピアノやバイオリンなど、音の種類に「制約」のある楽器での演奏は決して無くならない。

そして、その意味を考えるとき、我々は、大切なことを理解します。

アートの本質とは、「制約」の中での自己表現である。そして、もしそれが、アートの本質であるならば我々の「人生」もまた、一つのアートである。

そのことを、理解するのです。

 

2003年6月16日  田坂広志

所長視点

サッカーは手を使うと反則だし、オフサイドという微妙なジャッチが必要なルールもあります。

素人目にはそんな面倒なルールなどないほうがいいのに…と思いがちですが、サッカーが好きな人からしてみれば、『オフサイドの駆け引きこそサッカーの醍醐味!』だそうです。

制限があるからこそ、面白味があり、そこでしのぎを削り、感動を生みだします

制約のあるなかでの自由こそ、人生の醍醐味なんですねー

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