瞑想とは「行う」ものではない。「起こる」もの

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本心を育む人生を出発しましょう

実は本心を育むのに一番有効な手段は『本を読むこと』です。
なぜなら、本を読むことは人との深い出会いになるからです

人望がある人に共通しているのは、常に本を読んでいることと言われています
私は50年に人生でそれを実感しました

この記事では、本を一部分を紹介し、解説することで
本を読む喜びを味わうことができます
1冊でも多くの本と出会うことで、本心の成長につなげるブログです


所長
所長

今日は

『すべては導かれている』

田坂広志 著

からの引用です

本のポイントはここ!

心と向き合うとき
自分ではこうしよう、こうなろうとすればするほど、
心はその逆の状態になってしまう。
自分が頭で考えた意図でもって、心をコントロールしようとして
結果はでることはあるが続かない。
感謝できない環境を
「感謝いなきゃ。感謝しなきゃ」と意図でもって
心をコントロールしようとしていると疲れます
感謝できない環境のときは「感謝できてないな…」と深く受け止めていく
自分の心に寄り添うことにもつながります

今日の本の引用はこちら!

しばしば、政治家や経営者で瞑想や座禅を組むことを習慣にしてる人もいるが
多くの場合文字通りの「無念無想」の状態に入ることはなく
坐禅中も、湧き上がる雑念との戦いを行うか、
ときには、足の痛みに耐えながら座禅を組み続けるというレベルに終わってしまう。

では、なぜこうしたことが起こるのか。
なぜ瞑想という技法が難しい技法なのか。
その理由は瞑想というものの本質が、正しく理解されてないからである

瞑想とは「行う」ものではない
瞑想とは「起こる」ものである
すなわち、本当の瞑想の技法とは、
意図的に心を瞑想の状態に「する」のではなく、
ある瞬間に心がふと瞑想の状態に「なる」ことを待つ技法なのである。

逆に言えば、瞑想も座禅も、それがうまくいかない理由は、
そこに「人為的な意図」があるからである。
「無念無想の状態になろう」「瞑想の状態になろう」という
人為的な意図そのものが、まさに「雑念」なってしまい
「無念無想」にも「瞑想の状態」にもなれないという逆説に陥ってしまうのである

~田坂広志氏~


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