今日のお題は
小林正観さんです
今日のお題
どうも、私たちには、「見ているのに見えていないもの」が、たくさんあるようです。
私自身にも知らないがゆえに「見えないもの」が、山ほどあるに違いありません。
その中の、とても重要なものに気がつきました。
「幸せ」というものです。
実は、私たちは「幸せ」というものの本質を知らなかったのかもしれません。
「見てはいる」けれども、「見てはいない」ものの一つに、「幸せ」というものがあるように思えます。
結論を言ってしまえば、「幸せ」の本質は「日常」なのです。
「山のあなたの空遠く」にあるわけではありません。
例えば、偏頭痛の人がいるとします。
ずっと偏頭痛に悩んできた人は、「もしこの偏頭痛が消えてくれたら、どんなに幸せだろう」と思っていることでしょう。
そして、ある日突然、その偏頭痛が消えたら、「何もない」「静かで平穏な」日々が、どれほど「幸せ」であるか、を実感するのです。
では、その偏頭痛が今まで全くなかった人は、どれほど「幸せ」であったのか。
まさしく「幸せ」の海の中に暮らしてきたのです。
ですが、それが(偏頭痛が持続していたことが)自分の生活になかったがゆえに、自分が「幸せ」の中に暮らしていることを知りませんでした。
「知らない」がゆえに「見えない」ものが、たくさんある。
目に入っているにもかかわらず、「見えない」し、「わからない」「認識できない」のです。
その代表的な例が「幸せ」であるのかもしれません。
ある人が、例えば台所で、タクアンを切ながら、「あーあ、幸せ」と言ったとします。
その人は、台所でタクアンを切っているだけで「幸せ」なのですから、「どこに行かなくても」幸せ、であるのです。
「どこへ行かなくても幸せ」な人は、「どこに行かなくてもよい」のですから、「どこに出かけてもよい」ということになります。
『生きる大事 死ぬ大事』イースト・プレス
所長視点
海の中に住む魚には「海」の姿がわかりません。
同様に、「幸」の中に住む人間には「幸」の姿がわからない。
「見てはいる」が「見えていないもの」が、世の中にはたくさんあるのかもしれません。
もしかすると、見えないものに価値があり、見えないものの価値を忘れてしまっているのが一番の原因かも…
コメント