生きるって大変なこと。
これまで、たくさんの生と死に関わって生きてきました。
73歳のおじいちゃんの話をしましょう。徐々に痩せてきました。
背中が張ると言って、外来にやってきました。
血液の検査や超音波検査、CTの検査をしました。
後腹膜に腫瘍が見つかりました。
すい臓がん。
リンパ腺にも転移がありました。ご本人と優しい奥さんと、何度も治療法について話し合いをしました。
東京の息子さんも話し合いに参加しました。
ご本人の希望で緩和ケア病棟に入院しました。
「やるだけのことはやった。もういいな。とにかく苦しいのは嫌だな」
緩和ケアが始まりました。
痛みが取れると、彼は再びニコニコし始めました。
それでもご飯は食べられません。
「匂いを嗅いだだけで食べられなくなる」「でもね先生、もう1回ご飯が食べたいな」
横についている奥さんが黙ってうなずきました。
「先生、1回外出させてください。気分を変えてあげたい」
根拠はないけどいいことだと思いました。
賛成、賛成と背中を押しました。
おじいちゃんもニコッと笑顔を見せました。翌日、息子さんは東京の会社を休み、飛んできてくれました。
お昼から半日、家に帰りました。
夕方7時頃、おじいちゃんが病室に戻ってきました。
病室へ伺うと、おじいちゃんはニコニコしていました。「先生、トントンがよかった」
「トントンって何ですか?」
「家に戻って、いつも自分が座るところに座って、夕陽が落ちるのを見ていました。
先生、夕陽がきれいでね。
目を奪われていたんです。
この庭も見納めかなと思っていました。
その時です。
お勝手からトントンという音が聞こえだしたんです。
女房のまな板の音です。
こんな音、何十年も聞き続けていたはずなのに、一度も意識したことがありませんでした。
女房もきっと意識していないんです」奥さんが言葉を受け取った。
「何も意識していません。でも、この人が家に帰ってきてくれて、私はうれしくて、無意識の中で心が躍っていたんです」
おじいちゃんが続けた。
「まな板のトントンという音を聞きながら、生きてきてよかったと思ったんです。
シューッとご飯ができあがる音も聞こえてきました。
匂いも伝わってきたんです。
食べ物が運ばれてきても、その匂いだけで吐き気が出てたべたくなかったのに、音も匂いも心地がいいのです。
先生、食べれたよ。
お茶碗に3分の1ぐらいだけど、うまかった。
もう思い残すことはありません」奥さんと息子さんが下を向いて泣き出しました。
『1%の力』 鎌田實 河出書房新社
このおじいちゃんは間違いなく生きている。
死は近づいているかもしれない。
けど、そんなことはどうでもいいんだ。
いま生きているという実感が大事。
所長視点
すべての人がいつかは確実に死にます。そんな当たり前のことを忘れていたり、受入れずに遠ざけていると生きることが当たり前になります
生きていて当たり前…と思っていると「感謝」の気持ちを忘れてしまいます
逆に「死」を受け入れると不思議なことに「生きる」ことが輝いていきます。
死を受け入れて生きていくこと。できているようで、できていないのかもしれません
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