本心を育むNO487 罪のない人

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 「外見と心」、この二つも必ずしも相反するものではない。
私たちは相手に見せることの出来ない心を、物で表し、態度で示し、言葉に表現して相手に伝えようとする。
これは、心と体を併せもつ人間の宿命といえる。
キリストがお嫌いになったのは偽善であった。
醜いものを内にもっていながら、もっていないかのように見せかけ、他人の弱さを糾弾するファリザイ人、偽善者たちに対して、キリストはあからさまに、その嫌悪を示された。

ある日のこと、姦淫の現場を押さえられた女性がキリストの前に引き立てられてくる。
モーゼの律法に従ってこの女を石打ちの刑に処すべきか、それとも憐みをかけて釈放すべきかと、ファリザイ人たちはキリストに、二者択一を迫る。
釈放せよと言えば、神の掟をないがしろにすると責められるであろうし、石打ちにせよと言えば、日頃、罪人を赦せと説いている自らの訓えに背くことになる。
この、絶対絶命の窮地を、キリストは相手の意表を突く返答で切り抜け、さらに、人間の行動に先立つ心、目に見ない思いこそ、裁かれるべきものであるということをものの見事に示されたのであった。

「あなたたちの中で、罪のない人がまずこの女に石を投げなさい」
キリストは、この女をどうするのかとの問いには答えず、石を投げる“資格”を相手に問いただしている。
それに応えるかのように、石を投げることなく、一人去り、二人去って、残ったのは、女とキリストだけになった時、キリストは女に向かって、
「私もあなたを罰しない。行きなさい。これからはもう罪をおかさないように」
と言われたのであった。

ただ一人、女に石を投げる資格をもっていたにもかかわらず、キリストは投げなかった。
しかし、厳しくさとしている。
「これからはもう罪をおかさないように」
罪そのものに対しては厳しく、罪人に対しては、あくまでも優しいキリストであった。
「私がいつも、この度のように、助けてやれるわけではないのだよ」
と、きっとキリストのまざなしは語っていたことであろう。

『忘れかけていた大切なこと』PHP文庫
元ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子https://amzn.to/3qOmlly

所長視点

心と身体のどっちが中心になって生活しているかによって、幸せになるか不幸になるかが決まってくるそうです

心が中心のときは、うまくいかないことがあったときに「出来事に悩む」のではなく「自分の課題」として克服しようとします

身体(思考)が中心のときは「正しい」「正しくない」で判断し、過去を思えば後悔し、未来を思えば不安になります。

自分の心に寄り添う時間の必要度は大きいですね

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